2006年01月18日
大震災から11年
当時、私は大阪府堺市に住んでいました。
もう11年も経つのですね。何か、遠くて近いできごとですね。当時私は、堺市に住んでいました。当日は、体の調子が悪く、朝の5時前から目覚めていました。当日は会社を休み、病院に行かなければと考えながらベットに寝ていました。しばらくして、地震が起きました。堺は、震源からかなり離れているため、揺れはそれほど大きくはなかったのですけれど、小さなテレビが、転げ落ち、食器棚の中の食器類が、崩れ落ち、4,5個の食器が壊れた程度でした。
結構揺れたな・・と言う程度の気持ちで居ました。その後、病院に行き、その待合室で、テレビを見ていましたが、刻一刻と明らかになる状況に、唖然とした記憶があります。
一週間ほど経ち、上司が入院していたため、見舞いに須磨まで行きました。大震災の被害地域のど真ん中を横断しなければなりません。電車と、臨時のバスを乗り継ぎながら、やっとたどり着きました。電車の窓から見える光景、道路を歩いていても、本当に、目の前のたくさんの壊れた家屋、焼け野原になった地域。まだ鮮明に覚えています。カメラも持っていったのですが、ついに1枚の写真も撮ることが出来ませんでした。
札幌は、地震があっても、大丈夫でしょう。・・と言う人が大部分のように思えます。何百年、何千年に一度の災害だってあり得るわけですから、油断をしてはいけませんね。
我が家は、木造の3階建て。改めて調べてみると、建築確認済証ファイルに構造計算書が付いていましたが、手書きで、20枚位。本当大丈夫ですかね。まあ、私の場合、建築中も毎日何度も現場に足を運んでいましたので、それなりのチェックはしていましたので、今の建物には、満足はしていますが・・・
結構揺れたな・・と言う程度の気持ちで居ました。その後、病院に行き、その待合室で、テレビを見ていましたが、刻一刻と明らかになる状況に、唖然とした記憶があります。
一週間ほど経ち、上司が入院していたため、見舞いに須磨まで行きました。大震災の被害地域のど真ん中を横断しなければなりません。電車と、臨時のバスを乗り継ぎながら、やっとたどり着きました。電車の窓から見える光景、道路を歩いていても、本当に、目の前のたくさんの壊れた家屋、焼け野原になった地域。まだ鮮明に覚えています。カメラも持っていったのですが、ついに1枚の写真も撮ることが出来ませんでした。
札幌は、地震があっても、大丈夫でしょう。・・と言う人が大部分のように思えます。何百年、何千年に一度の災害だってあり得るわけですから、油断をしてはいけませんね。
我が家は、木造の3階建て。改めて調べてみると、建築確認済証ファイルに構造計算書が付いていましたが、手書きで、20枚位。本当大丈夫ですかね。まあ、私の場合、建築中も毎日何度も現場に足を運んでいましたので、それなりのチェックはしていましたので、今の建物には、満足はしていますが・・・
Posted by ch10822 at 05:56│Comments(0)
│趣味/陶芸
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